「観花」宜舟 gishu 江口ヨシタカ

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カテゴリ:花講座「古語拾遺」2013-2016( 49 )


2016年 03月 23日

web花講座「古語拾遺」vol.65 間と気

 風に靡く山吹、落ちる椿。
 吹く風は古楽譜へと繋がり歌となる。

  掛物/古楽譜
  花/山吹、椿の葉
  器/古ジャグリングクラブ

 そして、歌は風となって花とモノの間を去来する。

 花とモノを取り合わすとき、大事なこと。
 それは花とモノの気を合わすこと。
 そう、モノには気がある。忘れはいけない!!

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by eguchi_gisyu | 2016-03-23 00:07 | 花講座「古語拾遺」2013-2016 | Trackback
2016年 02月 29日

web花講座「古語拾遺」一念の花

 南方録の一節。
 「小座敷の花は、かならず一色を一枝か二枝軽くいけたるがよし…」

 まずは「一色」。
 一色は一念であり定まった心を現す。
 心静かに花に向かい、迷いなく花を生けたいものだ。

 そして「軽くいける」。
 大きく豪華な花は、見るからにも人の目を引く。
 しかし、奢侈を誇ることは、やがて争いごとのもととなり、徒に盛衰を繰り返すことになりかねない。

 一色を軽々と生けた花。
 それは、平和を願う一念の花ではないだろうか。


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by eguchi_gisyu | 2016-02-29 00:50 | 花講座「古語拾遺」2013-2016 | Trackback
2016年 01月 06日

web花講座「古語拾遺」葉だれ

「清巌茶話」の一節、「葉だれは、草木の葉の少しかたぶく程ふりたる雪なり」。

 草木の葉が少し傾く程に降る雪を思い、葉を扱い花をいける。このわずかに傾く「イノチ」の姿は、懐かしさを誘う。


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by eguchi_gisyu | 2016-01-06 14:05 | 花講座「古語拾遺」2013-2016 | Trackback
2015年 12月 15日

web花講座「古語拾遺」夜咄(よばなし)の花

 夜に生ける花は、白色か黄色がよいと宗恩(利休の奥さん)が云っている。
 火の灯りの中、白色や黄色であれば、本来の色を失うことがないからだ。

 しかし、現代は電気の明かり。そこで、あえて夜に紅い藪椿をいけてみる。
 一日の終わり、紅く力強い色は明日への活力となる。


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by eguchi_gisyu | 2015-12-15 00:37 | 花講座「古語拾遺」2013-2016 | Trackback
2015年 12月 14日

web花講座「古語拾遺」vol.17「せぬひま」

 世阿弥は所作から所作に遷る「せぬひま」が見どころだと云う。
 「せぬ所と申すは、そのひまなり。このせぬひまは何とて面白きぞと見る所…」
 
 「せぬひま」とは動作が静止するところであり、この静止状態とは外側からは止まって見えるが心は十二分に動いている状態を言う。

 これを花を生ける所作に置き換え考えてみると、花を器にとめる、これが「せぬひま」ではないか。
 花をとめる所は外側からは見えない。つまり、花をどうとめるか、これが所作から所作に遷る「せぬひま」であり、とめ方で器の上の花姿も変わると思う。

 そして、花をどうとめるか。観世寿夫さんの言葉をかりる。
 「演者の姿は舞台に根が生えたような存在感を伴わねばならぬ… 舞台で立っているということは、能の場合、前後左右から無限に引っ張られている、その均衡の中に立つということなのだ。逆にいえば、前後左右に無限に力を発して立つ。無限に空間を見、しかも掌握する…」。

 花をいける、それは、あたかも自生したかのように花を均衡の中にとめること。これが大事ではないかと思う。

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by eguchi_gisyu | 2015-12-14 00:28 | 花講座「古語拾遺」2013-2016 | Trackback
2015年 12月 11日

web花講座「古語拾遺」寄せ

 書の古典「麒麟抄」の一節
 「木立の如くに行を寄せて書くべし」。

 消息(たより)は、相手を思う心から行を寄せて書くこととある。
 木と草(花)をいける時、木と草の間が肝要。
 遠のくこともなく、近づくこともなく、草を木に寄せていける、これ大事。


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by eguchi_gisyu | 2015-12-11 00:58 | 花講座「古語拾遺」2013-2016 | Trackback
2015年 10月 19日

web花講座「古語拾遺」vol.64【日本の花の思想史】元禄/山田宗偏

 伊達に見事!この言葉は元禄の好みを表している。
 そんな時代、利休の侘びの正統を継ぐものとして、京都に宗旦あり、江戸に宗偏ありといわれた。

 「侘び」は相対表現であり、豪奢を知ってこその「侘び」である。
 豪華絢爛な大阪城に対するたった二畳の茶室があったように、元禄の時代もまた「伊達に見事」なものがあってこその「侘び」である。

 道庵(利休の子)は「伊達に見事」なものを得意としたが、宗和は「伊達に見事」なものは難しいといった。
 そこで、宗偏は「伊達」と「侘び」を調和させ花を生けた。
 その作風から椿の生け方を学ぶ。(そろそろ椿が咲き出す季節ですね)

 花の古典における椿の生け方のポイントは葉の扱いである
 利休は「花陽なれば、葉陰にて受ける」といい、葉が花を受ける「愛敬」を大事にした。
 宗偏は、この伝統を守りつつ、さらにその葉を「ハネル」ようにすることで「伊達」と「侘び」を調和させた。

 そして、「ハネル」ように葉を扱うこと。
 これが今の世の空間に合う椿の生け方ではないかと思う。

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by eguchi_gisyu | 2015-10-19 12:06 | 花講座「古語拾遺」2013-2016 | Trackback
2015年 09月 24日

web花講座「古語拾遺」vol.63 石菖鉢

 細く青い草を鉢に入れたものを石菖鉢といい、これを双花瓶と共に飾った。
 利休は暁には行燈、夜には短檠を用い石菖鉢の影を見たという。

 また、能阿弥の伝書にも「ウシロヲ見ル花」というものがあり、逆光線によって遠近がひとつになる姿を見たという。

 こういった演出こそが花を「生ける」ということであり、能阿弥や利休は色や形を超えた花の姿にどんな思いを寄せていたのでしょう。

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by eguchi_gisyu | 2015-09-24 14:27 | 花講座「古語拾遺」2013-2016 | Trackback
2015年 09月 12日

web花講座「古語拾遺」vol.62 花の法度

 花の法度はいろいろある。
 一花一葉、四花四葉、たけくらへ(長競)、四方くれない(紅)、わかれの枝、さし枝など…

 しかし、利休の考える茶の湯の花は、花の法度とは別の境にあったようだ。
 上記のような法度を踏まえた上で「数寄の道にはこれなし」といっている。

 川瀬敏郎先生はいう。
 なげいれは「定理あって定形なき」花。
 なるほど!いい言葉だ。

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by eguchi_gisyu | 2015-09-12 17:53 | 花講座「古語拾遺」2013-2016 | Trackback
2015年 09月 11日

web花講座「古語拾遺」vol.61 朝顔や萩を「いける」とき

 朝顔や萩は、前日の宵に切り、水につけておく。
 そして「ソレヲイケルナリ」という。

 水につけておくと、性が改まり直ぐなる姿にもどるからだ。
 花の道では、枝を曲げることを「ためる」といい、「ためる」を表す文字に「直」を用いることがある。
 専好は云う。生まれの(直ぐなる)ときを見つめ、これを現すと。
 大切な言葉である。

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by eguchi_gisyu | 2015-09-11 11:28 | 花講座「古語拾遺」2013-2016 | Trackback