「観花」宜舟 Gishu Eguchi Yoshitaka

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2013年 10月 18日

親鸞聖人

 今回は親鸞である。なぜ親鸞かというと、
 私の家の宗派が浄土真宗だからというこで…

 ごくごく簡単に述べる。
 浄土真宗は念仏を唱えること。禅宗は己自身を追究することである。
 よく言われることであるが、念仏が他力で禅が自力である。

 他力というと、あまりいいイメージをもたない人もいるだろう。
 今の世は積極的(自力をイメージ)な姿勢が評価されるし私もそう思う。

 しかし「最後の親鸞・吉本隆明著」に出会い「他力」という言葉が私の中で輝きだす。
 他力の教えは「信心一つで助かる」という教示であり、その極北は「己が計らいを捨てる」ことにある。

 「信心」と「己が計らいを捨てる」こと。
 これらの言葉は、私の花に対する考え方に多大な影響を及ぼす。
 それは、花をいける前に「己が計らいを捨てる」ことである。
 いける前に答えを決めると「あーしよう」「こーしよう」と花をいじり過ぎ、触れば触るほど花の美しさは消えていくからだ。

 そして、花を信じ花に随うこと。
 そういった「随順の美」が私の理想とする花となった。

 己が計らいを捨てた親鸞。
 しかし、僕は計らいを捨てきることはできない。
 捨てきる方法論も見えてこない。
 どうしても計らいは残る。

 いや僕の場合、もし捨てきってしまったら虚無になってしまう。

 そこで、川瀬敏郎先生の言葉をかりる。
 「素の花といういわばぎりぎりの姿に、自分のいける花が人為を尽くしつつ、それでも近づくことができるだろうか」

 そう問い続けようと思う。

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by eguchi_gisyu | 2013-10-18 18:02 | 随想


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